昭和44年05月25日 朝の御理解



 御理解 第65節
 「日柄方位は観るに及ばぬ 普請作事は使ひ勝手のよいのが吉い家相じゃ 吉い日柄と言うは空に雲のないほんぞら温い自分に都合のよい日が 吉い日柄じゃ 如何に暦を見て天赦日じゃと言うても雨風が強うては 今日は不祥のお天気じゃと言うではないか 日のお照らしなさる日に吉い凶いはないと思え。」

 この六十五節を頂きまして、人間のこの世で生活をさせてもらう。生き方の上にこのような大きないわば光を与えて下さっておると言う様な教えは、またとないと思います。もう全然暗さがない。全然こだわりがない。もう自由無碍闊達な動きの出来るおかげの頂けれる信心をここに打ち出してある。ここでは日柄とかと方位とか言った様な事にしばられて、様々な迷信が生まれ、その迷信に束縛されて広い、言わば世界を狭もうしてしまう。広い世間を狭うしてしまうような生き方をしておる人達に対する。
 何というでしょうか。今日の私しゃ御理解はもう私表現と言うか。言葉を知らない事で私自身何とかこういう素晴らしい事を世界中の人達に教えて上げたい。世界中の人達に交うような表現はないもんだろうか。学があろうが無かろうが。いや学問が有れば有るで、学問のある人達に、整然と理路整然と理論だててお話しできないものであろうかと思うほどしに。今日の御理解はそう感じます。
 もう人間の幸福というのは、ここのところが分からなければ、幸福にはなれないのですよ。そのように例えばこの六十五節は、素晴らしい事を内容としてあるのですよ。全然ひっかかりのない自由闊達又は自由無碍と言うて、決して我がままな勝手という意味ではありません。それを今日は、御理解七節などをを参照として頂きますとそれが分かります。御理解七節を読んでみます。
 「天地金乃神は 昔からある神ぞ 途中から出来た神でなし天地は流行る事なし 流行る事なければ終わりもなし 天地日月の心になる事肝要なり 信心はせんでも おかげはやってある」と。この御理解七節にあるような在り方、又はそれを信ずる。それを分かる。天地金乃神は、昔からある神ぞと。だから途中で流行る事もなからなければ、終わりももないとゆう事になる。まあ言うならばたくさんの宗教が出来ました。
 何千年の間に様々ないわば偉大な宗教が 出来ましたけれどもね、こういう天地を明解な説き方をしている宗教はありませんです。それこそ途中から出来た神を、でっち上げているようなものなんです。これは何宗何教と言わんでも。以外の信心は皆そうです。ですから流行ったりすたったりするのです。とにかくですね。本当いうたら私だけが悦に入とっても仕方がないですけれども。
 今日の御理解頂いとっても、本当になんとまあ言う金光教信心の素晴らしさ、偉大さとゆう事をですね。もう私は本当に実感いたします。そのことを頂いて実感させて頂いて、何と素晴らしい偉大な宗教であろうかと思うたら、さっき私と一緒に御祈念なさった方は。こうお広前いっぱいに響くようなおいさみがありましたですからねえ。それはね皆さん、本当に金光様の御信心は、こうゆう素晴らしいところだから自分のものにしてゆかなければ、しかし値打が無いのですよ。
 例えばちょっと考えてご覧なさいね。生まれるといい死ぬるといい、途中様々な例えば結婚式と言うて、例えば日を選ばなければならないと 言った様な窮屈な事があってよかろうはずがないです。金光教の御信心頂いて、例えば死んでもそうです。「今日は、友引だから」と言うて葬式が出来ないとか。もうそれはそういう風にですね。途中から出来た神と言うかねえ。途中から出来た信心。根本的なところに触れてない信心は、そう言う事をむしろ売り物にしたんですよ。
 そこんところを教祖の神様はですねえ。もう何と言うかね。そのものずばりと言うかねえ。世界に対する一大警鐘とでも申しましょうかね。それを乱打されたという感じがいたします。それをこんなに、やさしゅう平凡な感じで説き方をなっさておられますから、そこに今まで、お道の信心頂いとっても気が付かなかった。この御理解六十五節を、本当に分かった者が頂いたら、それはこれだけでも何とゆう素晴らし信心でだろうかと分かるはずです。「日のお照らしなさる日に 吉い凶いはないと思へ。」
 とそうゆう例えば、私共は「流行る事もなければ、終わりも無い」という天地。その天地の心を私共の日常の上に、私共の心の上に頂いて、いうなら天地まる生かしとこう申しますかね。天地の備えおられるお徳というものを自分の身の上にも頂いて、幸せになっていこうというのが、お道の信心なんです。そこでその私がこう申しますと夢のような事に聞こえるこもしれんから。
 いわゆる六十五節と御理解七節との関わり合いというかな。その中にあってそんなら私共一人一人の人間が、どのような生き方にならせて頂いたら、その天地の働きが充分に分かるか。又その天地の働きを充分に自分の身の上に、家の上に頂いていく事が出来るかと。言った様な事を聞いて頂きたいと思います。ですからここに金光様の御信心頂いておってもですね。自分で今までの観念とゆうものを、捨て切らずに。
 例えばここに日柄方位と出ておりますから、日柄方位と言ったようなものにでも縛られるような生き方をしたら、もう金光教の信心頂く値打はないです。それがいわゆる「吉い凶いは無いと思へ」と仰る様に。だからここんところを分っておられんなりにですね。そうゆう事には、全然こだわらずに、ひっからずにみえた方ばかりですよ。大徳を受けられた方達は。まあ言うならば全然問題にされなかった訳ですねえ。心にひっかかるとか。いろいろな、こだわらないで済んでみえられた方達ばかり。
 なる程天地の大徳を受けたという方達はですねえ、いわゆる七節にある天地日月の心になる事。ここも大変難しい事でございますけれども、その確かに天地日月の心と思われるような偉大な心です。大きな心です。ひとつもひっかからない心です。最近私が言うておる。黙って受けて黙って与えるという心なんです。ですからひとつもひっかるところがない。ここんところの説明は、なんとかひとつ私も勉強してですねえ。皆さんにもう信心があろうがなかろうが、学があろうがなかろうが。
 有る者には有る者。無い者には無い者にです。本当に徹底して分からして頂くような。例えば説明と言うか表現が出来る事を、これから研究したいと思うのですからね、まあおいおい聞いて頂く事ですしょうけれどです。そこでそのそういう偉大な神様を偉大たらしめる為にです。御理解七節の所を分からにゃいかん。ならその中ですよね。御理解七節と御理解六十五節のその中にあって、私共お道の信奉者というのかは人間私共はです。どのような在り方にならせて頂いたら、偉大な徳に触れる事が出来るか。
 偉大なおかげになってくるかと言う事。今日私御神前に出らして頂いたら、一番初めに頂きます事は、私の裏のテレビ室においでられる方は、最近置いておいとるとですから、分かられると思いますが。先日高芝さんがある所から頂いたという、小さいそうですねえ、昔の一升どっくりとゆうのがありましたよね。陶器で作りました、酒屋さんの名前が入っててとっくりの番号が書いてあってね。一升どっくりこう口の所が下げるところを作くった。あゝいうとっくりです。
 それは柳川の北原白秋の実家は、お酒を作ってたんですね。それが火事になった何にも無くなってしまって、その酒屋は倒れた訳ですけども。最近その白秋の徳を称えてですかねえ、詩聖といわれる、詩を作る神様のように言われた方ですから、その柳川では非常にせんでんしておりましてね、白秋の家で使ったと伝えられておるそのとっくりをですね。そのまゝ小さく作ったんです。一合ぐらい入るとっくりですかねえ。おんなじうちにあるのが、270号位のとっくりですが。
 それだけの数を作ったんです。ですからそれより以上には、もう他には幾らもないんです。10号とか11号とか12号とか、それを270まであったなら270本出来た訳です。その中の1本を高芝さんが、持って来て下さったんですね。私がこげなもんが好きじゃからというのですよ。まあどっくりを持って来て下さったから、私にあそこのそれをテレビの上に上げてから観賞さして頂いとる訳なんですけれどもね。そのとっくりを頂くんですよ。これは私は直感した事は、これいっぱい頂いた所で一合ですよね。
 だから大きなおかげを頂く為には、やっぱり大きなとっくりを用意しなければならない。まあ合楽の方達の場合は、受けのもが小さい。「おかげは頂きたい 頂きたい頂きたい」と言うても受けものが小さい。それがです。今日の六十五節のような大きな信心。例えば 御理解七節の中に出てくるような信心が、出来ないからなんです。そう言う事を知らないからです第一。六十五節のようなところ知らないから。説明は受けんでも。知っても、知らんでも、こういう心の人が大徳を受けたんです。
 例えて言うならこれも高芝さんの所ですけれども。あのおばあちゃが亡くなられました時に、丁度友引になっておりました。ですから親戚中にいついつお葬式とここにお届け来てから電報を打ったのです。けれども後で気が付いた事は友引じゃった。だから一日延ばすから電報を打ちなおすと言うてお届けに来ましたから。私が大変やかましく申しました。「金光様の信心しよって、そげなこつにひっかかっておってどうするのか。そんな事は問題じゃあない」
 だから本人は、ひっかかっておっても私自身は、ひっかかっておらないですからねえ。そんな馬鹿な話があるはずないじゃないか。「もう電報打っているんだから、そのままでいい」と言うて、おかげを頂きました。それはもう大変吉いお天気に恵まれて、有難いよいお葬式が出来ましたが。そのあくる日はもうどしゃぶりでした。一日延ばしておいたら。只しかしそれはそれだけの「あゝなる程」とこう合点のいくおかげだけなんですけれども。そのひっかからないと言う事が、おかげなんです。
 今日の御理解頂くと。はぁやっぱり先生のおっしゃる通りにしたから、本当にこのどしゃぶりに合わんでよかった。友引じゃけんと言うて、あくるあくる日にどんしとったら、それこそ、お葬式でもその当時は、リヤカーにお棺を乗せてから、火葬場迄運ばんならんとゆう時代ですからね。もう大変な事だった。会葬してもらうに皆んななに、しるしい思いをさせんで済んだ。と言う様なそんなおかげじゃないのですよ。今日の御理解は、それに全然ひっかからない私の心なんです、おかげというのは。
 偉大なおかげと言うのはね。それ知らんとやはり信心しとっても人が、とやこう言うからとか。もしその友引でも友を招くとゆうですかねえ、死人がついたりしたらもの笑いになるとか。そういうつまらあん事にひっかかる。「よし笑うなら、笑え。そげんところは問題じゃない」という。問題はそこなんです。いわゆるひっかからんで済むと、いう心が。もうこれは天地につながる偉大な心なんです。その事がおかげなんです。そういう例は、ここではたくさんございますですねえ。
 それは何故かというと私が全然馬鹿んごと、引っ掛っておらんからなんですよ。利口であったり学問があったりしとったら引っ掛るかもしれませんよねえ。どこどこの大学の総長とゆうような人達が、娘さんが嫁入られるというのに、やっぱり先日テレビで見たんですけれども、やっぱり黄道吉日を選ばれている。だからその学があれば、却ってそう言う事になるのかもしれません。私は幸い学がないから知識が薄いから、もう神様がおっしゃってくださった事を、そのまゝ信じられておると言う事が有り難い。
 全然ひっかゝらない。とにかく「日のお照らしなさる日に 吉い凶いはないと思え」とおっしゃれば、そのままそれが 信じられる。そこにです。馬鹿程の偉大な心とゆうのが有る訳です。ですからそういう心と同時に御理解7節ではです。その「天地日月の心になる事 肝要だと」説明してございますですね。それを私は最近はどのような、例えば事でもですよ。黙って受けられる信心。又は受けられるだけではなくて、黙って与えられる信心です。これは稽古です。
 そういう稽古を一生懸命させてもらと言う事が、いかにこのおおきな天地につながるかとゆう事を体験しておるのが、私の日々です。最近成程言わんで済むなあ。いや言わんで済むとゆう事だけでじゃない。このような素晴らしいおかげになってくるなあ。それだけではない。言おうと思うておった。これは人間関係であるならば、その人も助かっていきよる。相手もいわゆる与えていきよるからです。祈るだけでなく、只黙って受けるだけでなく、むしろ与えていきよるからです。
 だから自他共に私も例えば相手人も助かっていく。しかもそれは天地のおかげ。いわば偉大なおかげにつながっていく訳ですよね。ここんところがひとつ金光様の御信心をするなら、スッキリ頂りたいという願いの元にお互い信心をすゝめていかなければいけませんです。昨夜秋山さんの所の謝恩祭でございました。盛大なたくさんな方達が、集まりまして賑やかに出来ました。
 御信者の中でも偉大なと言われるほどしの大変なおかげを受けられたもんだなぁと言われるほどしのおかげを受けた人は、全部一人残らずこれは、それぞれにですね、そう右と願とっても左。左と願とっても右と言うように、いうなら大変なところを窮屈なところを有り難く受けぬいたり、頂きぬいた方達ばあっかりです。お願いしたらお願いどうりのおかげを頂いもうてりお願いすりゃおかげを頂くと、言ったような人はもう絶対、偉大なおかげにつながっていないです。
 甘木の初代が、おっしゃられたという。五十年の記念祭の時の先生の御挨拶の中に、「安武松太郎の願いがです。例えば五十年の間にあれも成就、これも成就と言う様に成就しておったら、現在の甘木教会はない。現在の安武松太郎はない。」と仰ったそうです。願った事は右と願っても左、左と願っても右と言った様な事であった、おかげで今日の甘木教会があり、皆さんがいわば有る訳だ。又安武松太郎が有る訳だという意味の事をお話しなったと言う事でございますけれども、にその通りなんです。
 ですから合楽でおかげを受けておるというのはねですね。願った通りにおかげという私の願いじゃなくて、皆さんが願った以上のおかげを受けておるこれは又別ですよ。願い以上のおかげを受けておると言う事。なら金光教の信心して、本当におかげ頂くならば、もういよいよ貧乏せんならん。いよいよ窮屈な思いせんならん。そうゆう言わば事は、ないです。けれども信心させて頂きますとです。まず第一になんと言うても、教えに縛られます。例えば、金が足りないなら、金に縛られる。
 体が弱いなら病気で自分の体がいよいよ不自由になってくる。そういう中にあるというだけなら、みんな同じですけれども、それをそのまま神様にお供えしておるです。その窮屈なまま。いやそれはどう言う事かと言うと、そういう難儀な苦しい中にあっても、その事を有り難いと神様にお礼を申し上げておるです。お徳を受けておられる方達全部。いや神様が、こんなにして迄鍛えて下さる。こんなに迄して私に、おかげを下さろうとしておる神愛に感泣しながら、その修行を受けていっておるです。
 信心しよるとにどうして、こげな事が起こるじゃろか、なんて等と言う事は思ってでもおらんです。そういう人達ばあっかりです。偉大なおかげを受けてるという人達は。だから、そうゆうチャンスには、誰でも恵まれておるけれども、そのチャンスを只生かしきっておらんだけ。只そこをやっとかっと抜けきったり、ただお願いをして只じだんだふむように願うて、そこんところを助けて頂いたりとゆうだけでは、いけないと言う事が分かる。そのことを本当にお礼の申し上げれる信心を本気で頂き。
 そのために「天地日月の心になる事 肝要」と言ったように信心が、必要になってくる訳ですよね。だから願いとゆうものが小さい。それこそ私が今あそこに飾っておる一合とっくりのようなもの。たったこんな小さい、一合とっくりしか入らんとに、「これに一升下さい。二升下さい。」というたっちゃ入れられるはずなかです。そこでですねえ。そうゆう例えば、偉大な受けものというのは、どう言う事になるか。この六十五節と御理解七節のあい中にあってです。
 私共はどういう信心をさしてもらい、どういう願いのもとに信心をすゝめていったらよいかと言う事になる。それには、皆さん、こういう願いをしなければいけません。例えば、自分の子供の事を願うでもそうです。「神様どうぞ、あなたのお役に立つ氏子にお育てください」という願い。「どうぞこの子が大学に行きますように」「これがよかとこに就職がでけますように」そうゆう願いは、もう本当にちっぽけな願いであると言う事です。「よかとこに縁が 頂けますように。」
 「頭がようなりますように」「成績が上りますように」もうそういう願いは、実を言うたらもう本当にそれこそ、けつの穴が小さい信心だと言う事になります。これでは天地の偉大なそれに、つながらないです。そうゆう願いでは。「神様あなたにお喜び頂けるような、あなたのお役に立つような信者氏子にお取り立て下さい」という願い。そんならこれは子供だけの事じゃない。自分自身の事だって同じ事。私共の一生の願いと思わしてもらえる、その願いがです。「どうぞ 商売繁昌せて下さい。
 そして大きな御用をさせて下さい」といったような願いではいけません。神様はどこに御神意、どこにおぼしめしがあるのやら分からんのですから。そういう願いに応えられる信心。いわゆる一期の願い。一期というのは一生一代の願い。そういう例えば願いを立てゝの信心。だからというて私が今日、皆さんに申したからと言うて、今日からのお願いをですよ。「子供の事はどうぞ あなたのお役に立つような氏子にお取り立て下さい」だけでよいと言う事じゃないです。
 私共もそうです。「神様に喜こんで頂けるような氏子にお育て下さい。あなたの願いが、私の上に成就するような、神様の願いが私の上に成就するような願いが成就いたしますように」というて今日から、願いを変えたからと言うておかげになるもんじゃない。問題は、その内容が難しいとです。それだけなら今日御理解頂いたけん。これはもう大変な御理解頂いた。この通りに願おうと言うて、偉大なおかげにつながるとは限らんのです。そこで、その中身とゆう信心を、ひとつつぶさに研鑽するというかねえ。
 つぶさに小さい事大きい事、様々な事柄をよく玩味すると言うか。何事にも信心になると言うか。いう信心に実行に移っていかなければいけないのですよ。これはまあ皆さんに。私の事を一生懸命お願いして下さる方達が、たくさんございます。健康の事を「もう とても親先生が食べなさる。食べなさる」ち私があんまり頂くもんだから。皆が今頃は、もう唖然としてから、「先生に言うたっちゃ同し事。
 糖尿病が悪かと言うのに、甘かもん食べたり、辛いも飲んだりしてから。そげなこつじゃあ」と言いながらも、やっぱり願うて下さる。ところが私は今日の御理解でいうごと、全然ひっかかってない訳です。私だけは糖尿病に甘いものが、いかんからと言うていはぁこれは甘いもんが悪かろうばってん辛抱出来んけん、食べよるというのじゃないと言う事。糖尿病にお酒はいかん。いかんことは分っとるばってん、好きなもんだからついつい手が出ると言ったようなもんじゃないと言う事。
 さっきの御理解じゃないばってん、ひとっつも私の心にひっかかってないと言う事。人間の命の為に作って下さる飲みものであり、食べ物であるしかないと言う事。だから又は、おいしいものである場合には、食べ過ぎる事もあるけれども。だから私は神様にある時お願いをさせて頂いた。これは節食をさせてもらおう。いわゆる暴飲暴食というものを慎ませてもらう。三杯食べてるところは二杯にする。
 二杯のところは半分にする。そういう行き方に徹底さして頂く事を修行とすれば、それもいいかもしれんけれどもねと思わして頂いたらね、そうして飲むもの食べるものがです。私の五体でね消化出来る。それをこなせれるおかげを願えと神様は、おっしゃって下さったんですよ。どんなに人が三杯しか食べんものを私が、五杯食べるとするか。人が一合しか飲まんのに二合飲んだととするか。そげん食べなさるならいよいよ糖尿病には悪かと。これが、通念的な考えですけれども。
 だからそんなら今まで二合食べよったのが、一合にしようかと言う事も。それを修行とすればいいけれども、そういう窮屈な修行よりもです。頂だけるなら頂けるだけのものが、の体でですよ。この私の胃腸なら胃腸でですよこなせれれるおかげ。それを願え。「どうぞ 今少し食べすぎよりますから、これがどうぞこなれますように」という願い。それだけの強い胃であり、腸であるを事をです。願う事の信心の方が偉大です。大きいです。「何を食べたっちゃあ当たらん」と言う事になる訳です。
 何を飲んでも平気と言う事です。皆さん今日私がこの七節と六十五節のあい中に、そんなら私共人間としたら、どんゆう生き方在り方にならして頂いたら、その天地の大きな偉大なおかげにつながる事が出来るかと。それを例えば今日までにいろいろ説いてまいりました事やらを、例を以ていろいろ申しましたですね。その又中心になるものは、今私が申しております事です。大きなおかげの受けものというのはね。なんぼ食べてもなんぼ食べてもです障らんだけの胃腸を頂く事です。
 これが偉大なおかげにつながるのです。それは人間の事ですから、限りがありません。いくら私が、大食だからと言うて大きな丼に二杯も三杯も頂く事は、出来ません。いうなら胃の中いっぱいしか頂けんのですから。それがこなせれる。そこが人間。これが例えば、肉体とか食べものとか言う事だけに限らずです。どのような問題でも事柄でもです。もうとにかく自分には、これは自分に無理だと。とても頂けそうにないもと、言う様な問題でありましてもです。
 「それをこなせるだけの心を頂かして下さい」と言う事になるのです。いうならそれをこなせる心というのは、「黙って受けられ、しかも黙って与えられるような心を頂かして下さい」と言う事になんです。それが天地の心にかよい。天地のいわゆるお恵みを頂く事の出来れる信心であると私は思います。お互いの信心がちょうど私共のテレビの上に飾っとります、確かに受けものを持たんじゃあない。とっくりも頂きよるけれども。それがあまりにも小さい。
 それからと言うて、目先目先の細か事は、願われんという意味じゃないから。これはいつも言いますけどね、願われんと言う事じゃないですよ。今日集金に行きたいと思うなら、「どうぞ 集金にやらして頂きますから、先方が万事お繰り合わせ頂かれますように」「今日はどうも胃が痛みますから、どうぞおかげ頂きますように」「頭が痛いから」「子供が今日は、遠足ですから」「今日は、子供に試験があるそうですから万事よろしゅう」とゆう願いは、これはせにゃおられませんですもんね。私共人間は。
 けれどもその根本的なところ、お取り次ぎを頂き願わして頂き、そのもうひとつその向こうの願い、奥の奥の願いというものはです。私共が一生の願い。いわゆる一期の願いとして、願いを立てるとゆう事はです。神様にお喜び頂けれる信心と言うか。私と言うか。例えば子供の例を以てしましたが。「どうぞあなたのお役に立つ氏子にお取り立て下さい」とゆう願いです。
 ですからこのごろ、栄四郎の先生が家庭訪問で見えられました。なかなか学校でも二上って勉強はせんそうです。それで先生方の眼にもついとる訳です。そこで私がその先生に申しました事がですたいね。私は子供達を育てさせて頂くと言う事は、もう私のように無関心で又は放任主義の者は、おりませんから、先生方にそれだけ御迷惑をかける事でしょうけれどもです。私は結局その子供、例えば栄四郎なら栄四郎がです、本当の幸せにつながる事の為にと言う事の願いを、誰よりも強く私は持っております。
 頭が悪い学が出来ん。出来んから先生方から、いつもにらまれておる。友達からは軽視される。言わば軽くみられる。例えばそう言う様な事の中にあってもです、それがこの人の一生の上に幸せの事につながる事であるならば。いやそれは幸せにつながる事だと、私は信念させて頂いておる。今ここで大変勉強が出来るとか。子供ながらもなかなか人物がしっかりしとると。言った様な事を願っても「これは、先生あなた方の子供の時の事を ひとつ思うてご覧なさいませ。
 ああたが小学校の時のクラスの中で、この人間はしっかりしとったというのが。今はたして、しっかりしておりますか。あの時にはこの人は成功するに間違いないと言う程に頭の良かった人が、どのくらい、ぐうたらになっておるかと言った例が、余りに多いという事をひとつ、教育界の人達は、本当に知って頂かないけん」と私は思うのですよ。したら、ここの村の方ですもんこの先生が。もう大変私の言う事に共鳴して下さってですねえ。「現在の教育の欠陥は、そこです」と言うてから共鳴して下さいました。
 只私が「どうぞ あなたのお役に立つ信者氏子にお取り立て下さい」と言う事がです。頭がよかっちゃかえっていけない場合があるかもしれんじゃないですか。頭がよかった為に、「もう金光様の先生にゃならん」というてから、言う様な事にたとえばなるかもしれませんものね。ですから根本の願いというのは、奥の奥になかならにゃいかんですと言うて、「さあ今日は試験ですから」「今日は遠足ですから」と言うて、言わばやはりその事は、願うけれどもその奥の奥にあるものは、根本的なもの。
 昨日の秋山さん所のお宅祭を頂かしてもろうて、お宅祭を拝まして頂いたある方が、「私は、今日の鰤を三宝にのせてのお供えという御理解を頂いた時にびっくりした。実は先生、私も頂いたんですよ」という訳です。「しかも私が頂いたのは、右、左に大きな鰤が、お供えしてあるところであった」いわゆる鰤を二匹じゃけんとまあぶりぶりと言う事じゃろう。いわゆるぶりぶりしたおかげを頂きたいという誰でも願いは持っておるけれどもと。これが二つながら、ぶりじゃいかんですばい。
 片方はやっぱ鯛でなからないけん。けれどもそのぶりぶりしたおかげ、ばっかり願っちゃつまらん。それにはです。やはり鯛がいる。右に鯛があるなら、左に青もんの鰤がお供えしてあってほんとの事。その鯛とゆうのはね。いわゆる目出たいとも言うから、目出度いのおかげを、まず頂かにゃいかん。それが今日の御理解。目出度いとは「あらちった馬鹿じゃなかろうか」とゆう時に「あらちった目出度かっじゃなかろうか」と言うでしょうが。いわゆる馬鹿と阿呆よ言う事は。
 そういう偉大な信心につながる事でもあるのですよ。引っ掛らん人からどげんこつ言われたっちゃ。これががめでたいから。その目出度いのお供えが出来て、ぶりぶりのおかげを頂かにゃいけんでしょう。偉大なおかげ。私は昨日からそれを思うのです。本当に合楽の御信者さんの皆さんの中に、本当に今私の信心を頂いて下さろうとしてある方達がです。どうでもぶりぶりしたおかげを。昨日私は秋永先生にだけ申し上げたんですけれども、私が昨日秋山さんの所でお話しさせて頂いたけれども皆がですね。
 「それを本当にそうだと頂かなかった」と頂くのですよ。何故かというとつもが私のお話しは「お徳を頂く為には 力を頂く為には」というお話しじゃけん。又あのお話。と言う様な風じゃけん、眠って聞いとったり。そらそうばってんと思うて聞いとるだけです。だから「秋永先生 どうでもこのお話しを頂いて、そういういうところの本当にぶりぶりしたおかげを頂く人が、何人かまず出来なけれりゃあ。そしてその人達が私は こういう信心したら、こういうおかげを受けたと言う事に。
 もう私が言うたっちゃあ聞かんごつなっとるてみんな。だから本当にここにおかげを受ける人がです。実際に表れてこなければ本当は、もうきかんごつなっとるけん。とにかく、まあ何人かでもよいから、そのぶりぶりとしたおかげを頂かしてもろうて、こういう信心さしてもろうて、こういうおかげを頂いたという、おかげの見本を示してもらうより他に手はなかて」私が言う。だからこうやって説かせて頂いても、まあ皆さんに分かってもらわなければ、せいがないのですけれども。
 これは必ず残っていつかは、役に立つと思うから。こうやって一生懸命お話しとるのです。皆さん偉大な信心、偉大なおかげにつながらせて頂く為にです。その偉大であると言う事は、六十五節を持ってしても、こんな偉大な信心があるであろうかと。ひとつ分解にゃいけません。平凡な説き方をしてあるから、表面だけ読んだら「只迷信やらは言わん信心だな」というふうな位にしか受け取れませんけれども。そんなこつじゃあない。この御理解ひとつ聞いただけでも、金光様の信心の偉大さが分かる。
 それを具体的に天地の親神様の働きというものをですね。その神様はもう本当に「もう本当に昔からある神様ぞ」であり。「流行る事もなければ、終わりもない」という神様であり。それを頂いていく事の為にですね、肝要なのは天地日月の心になる事だと言う事。それを中味の信心として今日、私が申しましたようなところをです。問題は「とにかく偉大な胃袋を頂け」と言う事です。
 いくら飲んでも食べても障らんで済む。「そげん食べよるなら、悪か」と言われるような場合でも、その食べものを私が、この胃でこなしたらいいでしょうが。障らなかったら。そういうおかげを願うところがですねえ。そこんところを願わにゃいかん。本当に例えばです、日のお照らしあるのに、お照らしある日に吉い日悪い日はないと思へと。日々の中に起きて来る様々な問題の中に、「これはおかげ」「これはおかげじゃない」と言った様な事はない。「全てがおかげだ」と分かる信心になれと言う事ですよね。
   どうぞ。